Aparigraha アパリグラハ
ヤマの最後 アパリグラハです。
【 Yama ヤマ(禁戒)】
① アヒムサ(非暴力)
② サティヤ(真実・正直)
③ アスティヤ(不盗)
④ ブラフマチャリヤ(禁欲)
⑤ アパリグラハ(不貪)
他人や物を含む周囲に対して守るべき5つの行動
環境や人々と良い関係を保つために自制すべきことがまとめられている
アパリグラハ(不貪)
「アパリグラハ(蓄積をしないこと)が確立したものには、
過去生の経験の蓄積が照らし出される」
“A yogi who is established in non-accumulation clearly sees the accumulated experiences of past births”
ヨーガ・スートラ Ⅱ−39
Aparigraha
a= not(否定を意味する)、parigraha= 集める、貯える
「貪欲にならない」「秘蔵 ー適切に使うことのできる範囲を超えた備蓄をしないこと」、そして「贈り物を受け取らないこと」です。
アパリグラハはアスティヤと響きあう関係にあります。
そして、アパリグラハはブラフマチャリヤとともに、離欲(ヴァイラーギャ)についての行動の項です。
アパリグラハをする意味は、心を 欲望や義務から自由にすることにある といわれます。
どういうことでしょうか。
贈り物を受け取らない?
贈り物を受け取らないこと。
これがアパリグラハというのは意外ではないでしょうか。
どの文化でも、折に触れた謝意としてのギフトのやりとりは見られます。
それが本当に悪いのでしょうか?
日本ではよく見慣れた慣習 ー香典返し、お歳暮などを考えてみましょう。
見返りを求めず、ただ、心にわいた思いから やっているのでしょうか。
贈ることへの義務、受け取ったことによる返礼の義務が発生していないでしょうか。
毎回もらうようになると、もらえないことに不満感を持たないでしょうか。
贈り物をすることも受ける時も、何かに応えなければいけない気持ち、もらって当然だという気持ちが生まれるとしたら、それは、贈答によってあなたの中に執着(影響)が生まれています。
日本では、医師や看護師、教師(政治家も)は、市民からの個人的な贈り物を受け取れません。
その理由は、まさに、受け取った事実が判断に影響を及ぼし、中立的な職務の遂行ができなくなるからだと思います。
ブラフマチャリヤの項でも触れましたが、行為の結果に執着しなければ問題ないので、贈り物をもらったりあげたりしても、その結果に影響されなければ ー義務や期待がなければいいわけですが、ただ、度々言うように、結果に完全に影響されないようになるのは難しいことです。
社会生活上、贈答は文化なので避けられない部分もあります。
それならば、義務や欲望からできるだけ解放されるように 上手に付き合っていく必要があります。
贈るときは 慣習や義務感ではなく、自分の気持ちの表現の形として 何の見返りの期待もなく、贈りたいものです。
自分が贈った相手に、返礼の義務がないことを 忘れないように。
内容も 受け取った相手に心理的負担を与えないものを選ぶようにしたいものです。
受け取るときは、中身より 相手の気持ちを受け取りたい。
「あれがよかった」「これはイマイチ」という気持ちが生まれたとしたら、欲望のサイン。
その感情に執着せず、早めに手放しましょう。
謝意としては分不相応なギフトで 期待に応える必要性を感じるような場合には、気持ちだけ にしておく方が、結局楽な場合もあります。
貪 欲
視覚、触覚、聴覚、嗅覚、味覚 …感覚器を満足させること。
感覚器に心地よいことは 人間的楽しみの一つだと思います。
ただ、ヨガ哲学では「感覚器の喜びを追求しても、心の平穏は訪れない」と考えます。
感覚器の喜びを追求すること。
味覚、食べることであれば。
最初は1000円でシンプルに調理されたランチに満足していたのに、やがて より珍しく高級な食材と、優れた調理法で提供される、ラグジュアリーなレストランで食べることへと変わっていく。
ミシュランの星付きレストランにたくさん通うようになっても、もっと優れた料理は と、「もっともっと」と続いて終わりがありません。
そして「もっと」という枯渇感は 消えません。
枯渇感だけではなく、追求したことによって自分の人生の時間を費やし、お金を浪費し、選んだ料理の内容によっては健康を損なうこともあります。
ヴェーダーンタの聖典 ヴァカバッド・ギーターでは、「阿修羅的な人々の行動」についてこう表現しています。
彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。(16.10)
彼らは、限りない、死ぬまで続く思惑にふけり、欲望の享受に没頭し、「これがすべてだ」と確信する。(16.11)
彼らは幾百の希望の罠に縛られ、欲望と怒りに没頭し、欲望を享受するために、不当な手段によって富を蓄積しようと望む。(16.12)
ヴァカバッド・ギーター(上村 勝彦訳)
“満たし難い欲望”
“欲望の享受に没頭し、「これがすべてだ」と確信する“
”欲望を享受するために、不当な手段によって富を蓄積しようと望む“
感覚器の喜びを満たすことに無自覚でいると、欲望のループ ー貪欲から抜けることができなくなります。
もう一度言いますが、感覚器の喜びはあっていいし、ある方が人生は豊かです。
生きる楽しみのスパイスだと思います。
ただ、感覚器の喜びの追求が生きる目的にならないよう、欲望と向き合い 自分でコントロールする意識が大切です。
(コントロールについては、ブラフマチャリヤを参考にしてください)
秘蔵 ー ため込むことは アスティヤ
アスティヤの項で 「自然はバランス取ろうとする」という話があったのを覚えているでしょうか。
その時、「自然のバランスの中で、どこかで奪ったものは 今後どこかで(前世来世を含めて)別の何かを、何らかの形で失う」という考え方があることに触れました。
結果的に使われない状態でため込まれているものは、必要としている存在から奪っている状態ー「盗み」と同じ状態です。
そういう意味で、このアパリグラハはアスティヤの一面でもあります。
ため込みはバランスの崩れ ー入ってくるものと 手放すものー
健康で文化的に生きていくには 食材や衣服、食器や家具を入手する必要があります。
そして、経年で痛んで使えなくなった道具や、もう使う必要のないものを手放すことで、そのものに使っていた空間・時間が空いて、次のことに使えるようになります。
私たちは 人生の中で何かを手放し、別の何かが入ってくることを 常に繰り返していて、そのバランスの上で暮らしています。
その「入ってくるものと手放すもの」のバランスが崩れると「ため込み」が起こります。
どんなに広い空間で生活しても、所有しているものが増えると、身動きが取りにくくなり、ものを探し出すことは一苦労です。
さらに、忘れられているものもあります。
ため続けることには限界があり、人が管理できる物事には限りがあります。
所有するものが少なければ少ないほど、身軽で執着がない とヨガでは考えます。
所有するものが少なくなると不安ですが、同時に、所有するものから解放されるからです。
ため込まないためには、「入ってくるものの厳選」と「手放すものを意識する」ことが必要です。
そして「ため込まれたもの」は、物質に限らず、人間関係や習慣的な行動など、自分が「所有している」あらゆるものが対象です。
入ってくるものを厳選する
「面白い」「ただ欲しい」「安い」「珍しい」
「ここで買わないと次はないかも」「今手に入れないと他の人に奪われる」
と思って、欲望や不安から手に入れること。
あるいは、「あったら便利かな」「何かの役に立つかも」と保険をかけるように所有すること。
「それが 今、本当に 自分にとって必要かどうか」を基準にしてください。
対象は物だけでなく、人間関係、今後習慣になる行動が含まれます。
なぜ手に入れる必要があるのか?
必要性をサティヤな視点で確認しましょう。
資源には金銭で測れない価値があるので、「安さ」を手に入れる基準にすると、資源を無駄にしてしまいます。
それは一つのスティヤ(盗み)です。
欲しい理由は何か?
欲しい原因の後ろにある 欲望と不安に目を向けましょう。
生きる上で必要不可欠でなくても、自分を構成する要素として、欲しい時、必要な時もあります。
必要性を考えたり、問いかけることなく欲望と不安に任せていると、増えすぎて 自分の行動や時間の制限になります。
(欲望のコントロールは、ブラフマチャリヤを参考にしてください)
手放すものを 意識する
既に自分に必要でなくなったもの。
壊れたもの。使えないもの。使わなくなったもの。
好きではないもの。使いにくいもの。
入ってくるものを厳選していても、手放すものに無自覚だと減ることはないため、少しずつ、時間を重ねるごとに 様々なものがたまっていきます。
物はもちろんですが、人間関係や、習慣的行動も対象です。
どちらも目に見えないために意識しにくいですが、多すぎると行動や時間、エネルギーを奪われます。
まず、何がもう必要ないか、サティヤな視点で見つめます。
不要になったもの(物、人間関係、習慣的行動)は、他に必要とする存在へ返せるように、手放しましょう。
その中で 手放し難い気持ちが生まれる時は、執着に気付けるチャンスです。
なぜ、手放し難いのか、何にこだわっているのか。
もし手放せなくても、そこから自分を知ることができます。
変化する時が、バランスの変わる時
人生の各段階で必要なものは 変わります。
引越し、結婚、出産、進学など、なにかの節目や、生活、意識の変化が起きた時には、「入ってくるもの」と「手放すもの」が変化する時でもあります。
そういう時は慌ただしい時でもあるので、
大抵「入ってくるもの」は無自覚に増えていき、「手放すもの」は意識されずに後回しになりがちです。
何か変化があった時。
自分に起きた変化が落ち着いたら、「入ってきたもの」と「手放すもの」を意識する習慣を持ちたいものです。
この辺りは、断捨離※について調べると、具体的な方法が見つかるかもしれません。
【 このコロナウイルス流行期における アパリグラハ 】
この時期に感覚器の喜びを満たすことに 注力している人は多くないと思いますが、不安感と危機感から、秘蔵ーため込みたい気持ちを肥大させてしまいやすい状況が続いています。
貪欲に、不安に任せて買い占めをすること。
このことはアパリグラハでもありますが、すでにアスティヤの項で述べました。
よければご参照ください。
ベイエリアではロックダウンも4週目を迎え、この地区にお住まいの方は この生活のリズムにも慣れてきた頃かと思います。
ベイエリアでは このままうまくいけば、医療崩壊を招かずに済むのではないかと思います。
もちろん感染はまだ広がるでしょうし、有効な対処法も見つかっていません。
ロックダウンもまだ終わりが見えていませんが、それでもいずれは 解除される日が来て、
何年先かわからないけれど、COVID-19の感染拡大を人類の手で、薬やワクチンなどで制御、あるいは共存できる日もくると思います。
ただ、その時やってくる生活は きっと今と同じではないと思うのです。
私は、COVID-19の世界的流行で、社会は大きく変わるだろうと思っています。
社会の価値観は大きく変わっていくでしょう。
その中で、自分にとって何が重要か、考え方や生き方、社会との関わり方も変わるかもしれません。
もうすでに、ご自身の中で 変化を感じている方もいるかもしれません。
変化が起きているなら、いずれアパリグラハが必要になります。
自分にこれから何が必要で、何が不要になるか。
具体的に見直すのは先になったとしても、そうした視点を持って生活することで、COVID-19後の世界が より生きやすいものになると思います。
断・捨・離
「断捨離」は、今では日本人に馴染みのある言葉となりました。
やました ひでこさん によって知られることになった言葉で 片付け術のように使われている言葉ですが、もともと「沖ヨガ」の練習経験から生まれました。
現在のヨガの流行は、欧米からもたらされたものですが、ヨガは日本や韓国には仏教系統から入って来た経緯もあり、流行以前から ごく一部の人々の間で修練法として続いてきた背景があります。
沖ヨガは「求道ヨガ」「総合ヨガ」いわゆる伝統的ヨガとして、沖正弘氏によって、ヨーガ体操(アサナ)、呼吸法、瞑想、そして「断行」「捨行」「離行」を含む 哲学的教えを総合的に教えていたようです。
断捨離は、八支則でいうところの ブラフマチャリヤとアパリグラハと理解できます。