Culture

perfect days

公式サイト:https://www.perfectdays-movie.jp

見る前から 「この映画はヨガっぽいんだろうな」と思っていました。

トレイラーを見るだけでも、平山の姿はアシュラムの修道者のようです。

『は?』

と思う方もいるでしょう。

同時に、このブログを以前から読んでいた方には、何を言おうとしているか、伝わる部分があるのではないかと思います。

なんにしろ、久々にブログをアップしようと思ったのは、この映画が公開されている間に 自分なりに思いを綴りたいという気持ちがあったからで、何かのきっかけでこれに触れていて 気になる方には、視聴して確かめることをお勧めしたいです。

(ネタバレはありませんので、未視聴でお読みになっても問題ないかと思います)


ヨガを学び始めてから ヨガ哲学の書を読み重ねてきていますが、解脱を最終目的にしていない私は 理論は頭の中で理解できても、“現代でヨガを生かして よりよく生きるにはどうすればよいのか“ という問いの答えにはまだ辿り着けていません。

ずいぶん長い間、それを目的に ヨガとは関係ない哲学や論考を 興味が惹かれたものから読むようにしてきています。

今回トレイラーとサイトを見た時、
「これは、この人物は“ヨガ的な“生き方をしている。
 でも、この人物は その上で人生をどう生きているのか。それをこの映画はどのように描くのか。」

そこが気になりました。

平山の生き方は、現代を生きる人にとっての カルマヨギの姿そのもののようです。

修練のように 同じ時刻に起き、身支度を整え、務めを果たす。そうやって、日々を重ねる。
同じことを繰り返しながら、中身は常に違っているということを 平山は知っている。

ここまでの描写は、想像していたものでした。

結果から言えば、多くの書物と同じように 映画の中に 探している答えは ありません。
もちろん ありません。

答えは、そもそも 多分ありません。

それでも、この映画には 触れて良かったと思う部分が多くあります。

この映画は、カメラはずっと平山に寄り添いながら、決して カメラの視点からわかる以外のことは 説明してきたりしません。

出来事を覗き見るだけで、観ている我々は 勝手に 背景を想像するだけ。

それが合っているとか、合ってないとか。

そんなこともわからない。

そこは、制作側が意識的に そのように作っている気がします。

そして、そういう不確かな登場人物の姿の中に 何か探そうとする時も、 感情を“読んで“、嫌悪とか好感とか そいういう“判断“を 付加している。

それは他でもない、見ている側の我々が。

それは、私たちが生きている世界そのもの。

世界はそんなふうに、誰も説明をしないし、本当のこともわからないままで、
人々は 勝手に 世界の中に 自分の理解を付け足している。

この作品の中で生きている人たちは、近くにいるけれど、互いのわからない距離を詰めたりはしなくて。

手を伸ばして届きそうで 届かない距離感の中で、別々の道を生きている。

その距離は、直接的な温かさでなくても 体温の輻射熱は伝わってきて、何も知らなくても、その痛みもわからなくても、痛みを慮るその気持ちだけが届くような そんな距離感。

人と人との距離感が そういったふうに描かれている気がします。

その描写が、たまらなくあたたかく 自分の傷を思い出させ、その傷から 血ではない 温かいものが溢れ出しているということを 教える、

生きる上での 誰しもが抱える痛みの傷が ああ、だから今があるのだと 肯定できる。

そうしたやさしさのある作品です。


さて。

ブログは実に帰国してから2年ぶりくらいの更新になります。

元気ですし、ヨガを続けています。

それでも、日本での生活の慌ただしさに なかなか自分の内側に向き合って 言葉を練るということができなくなっていました。

最近また、内側か湧いてきているものがあり、言葉にしたいという気持ちになってきています。

コロナ禍のように言葉を綴ることは今後も難しいと思いますが、ヨガの修練同様、こちらも続けていけたらと思います。