Yoga

継続を通して 変化を知る

少し前(というか、2年前…)になりますが「安定と調和」というブログで「安定とは普遍的なものではなく、揺らぎを含んだ状態のこと」であること、「常に変化を感じながら調整をしている動的な瞬間の継続」が調和であり、それが安定を感じさせるのではないか という話をしました。

今回はこの「“安定“に見える調和」に近づくためにやれることについて 綴ろうと思います。

「調整をしている動的な瞬間」をその場限りにしないために

この要素を満たすためには、
「変化が感じられる自分であること」
「感じた上で調整できること」
「その調整が継続できること」
が必要になります。

変化を感じる

季節が移り変わるように、どんなに平穏に見えていても、全ては刻々と変化しています。

そして、自分自身も 身体も心も 成長と加齢の大きなうねりの中で、いつも一定ではありません。

自分を取り巻く環境が 今この瞬間、普段とどれだけ違っているか、自分の身体や心も毎日変わっていく“今日の今この瞬間“の、
「“安定“に見える調和」をつかめる自分を整えていくためには、環境と自分の微細な変化が感じ取れる感覚を磨くことが必要になってきます。

最も重要な一つは、当初より触れている「呼吸」。

呼吸が自然と深く 心地よく、どの体位でも制限なく行えるようになるのなら、この調和を得ることに近づいているのは間違いないと思います。

環境と自分の微細な変化を感じ取れる練習にするために

呼吸は、その日の練習を深める、集中力や観察力を高めるという点で有用です。

一方で 環境と自分の微細な変化を感じ取れる感覚を磨くためには、その日の一回限りの充実では足りないのです。

「調整をしている動的な瞬間」が「安定に見える調和」になるには、回り続けるコマのような連続性が必要です。

継続は継続として、どんなふうに継続するのか。

継続の方法だって、色々あるのだと思います。

2年前のブログで、私がしたいヨガは「『いつも同じ結果を出す』やり方ではない」と書きました。

だからこそ「今日、今この瞬間の“ライン“はどこなのか」を知るためには、「いつも同じ結果を出す」やり方では できないことだと思います。

これは「『毎回同じ結果を目指す』のではない」という意味ですが、練習自体は あえて「毎回同じ要素」をやろうとしています。

結果」は「毎回同じ」を目指さないのですが、「やること」は「毎回同じ」にしたいのです。

それは「色々やって いつも同じコンディションを目指す」のではなく、「同じことをやることで 毎回違う自分を確かめる」作業です。

「同じ動き」を定期的に、決まった時間に繰り返していくと、外的要因が一定の条件に近づくからか、不思議と 内側の自分の微細な変化がはっきりしてきます。

呼吸の深さや、心地よさ、意識の明瞭さ、集中力、心拍の速さ、ふらつき/安定感、耐力…
それらが 今日はどうなのか、どう違うのか…

これらに気づきやすくなります。

これは経験からもはっきり言えることです。

“Perfect Days“ を通して

このような内的気づきを感じさせやすくする練習法はヨガに限らずたくさんあって、例えば日本の修道 ー武道、茶道などー は「型」を完成させ、決まった型を行う中で 内側で起きている状態を把握する修練法であると思います。

奇しくも、最近視聴した“ Perfect Days “ の主人公 平山も、日々の労働と休日の過ごし方に「型(監督はルーティーンと表現している)」を持っています。

そして映画は、同じことの繰り返しを通して、毎回違っているということを 実に丁寧に伝えています。

そして、場合(受け手)によっては そういう継続はとても“地味“で“退屈“に見えるだろうということも。

決まった型を行う中で 内側で起きている状態を把握する。

その経緯を通して調整する。

そのように“地味“に ヨガを使う。

もちろん、やっている途中で 「今日はもうできない」「これはとばす」ということが起きても構わない。
それ自体、型がある中から 自分が変化を感じ取って選んだ選択だから。

力は入っていないけれど、その瞬間に合った行動が 自然と出てくるような そういう関わり方ができるような存在になるように。

これがここ数年、実感が確信として感じられるくらい ヨガで届けたいことです。

“Perfect Days” のように生きる

このブログの内容は、ほとんど2年前に8割完成していましたが、何か足りなくて 精錬が終わらずに投稿できない状態でした。

それが、Perfect Days を知って 見たことで、この記事をまとめたいという思いが芽生えました。

あの映画の中にあることは、私たちが みんな持っていて、いつでもそれに気付くことができ、自分でも始めることができるものです。

平山が ハタヨガなしにそれができること(ほとんどカルマヨギであること)は素晴らしいですが、私たちも カルマヨギとしても生きられるし、それが難しくても 例えばヨガクラスの90分を通して それに近づくことはできる。

程度は違うかもしれないけれど、程度なんてどうでもいいのです。

実際に自分が継続し、自分が違いを感じ、変化に気づけているのなら “内容“とか“程度“なんて 本当にどうでもいいと 心から思っています。

私がヨガを教えていて これはヨガブログなので、私は「ヨガの練習を通してそれを知ることができる」「ヨガの練習をそういうふうにしてほしい」と言いますが、それ以外の方法をすでに持っている人は その方法で十分だ とも思っています。

精神性の面だけならそれで良い。
それは間違いないけれど、個人的には、身体性だってそうである方がいい。

私たちは、精神も身体も 共に「“安定“に見える調和」に近づく方が良いのは間違いないのだから。

だから ヨガをしましょう。
というアピールは 私は今はもうしません。

だから、ヨガをしてみたい、継続していたい。

そういう人にとって、きっと何らかの意味があるでしょう。

ヴィム・ヴェンダース監督はロングインタビューで、「平山は実はどの人の中にもいる」と話しています。
その言葉を口にしている前後に その意味を話しているシーンはなく、インタビュー後半ほど、今回のブログと近い部分を話されているように思います。
リンクはあえて、後半の部分から。


興味のある方は第1弾からどうぞ。