Yoga

安定と調和

これまでブログに何度も「安定」という言葉を使ってきました。

みなさんもクラスの中で「安定」という言葉を聞くことはないですか?

バランスポーズでの「安定」、タダアサナの中の「安定」…

ずっと 「“安定“という言葉でやりたいことが伝えられる」と思っていたのですが、ここ最近 「“安定“という言葉の捉え方によっては 全く伝わらないのではないか」と思い始めています。

「アサナは安定して快適でなければならない」

“Sthira – sukham – asanam“
アサナは 安定して快適でなければならない

「ヨーガ・スートラ 第Ⅱ章 46節」

※スートラでいうアサナは、座法を意味します

アサナには「安定」が必要です。


この安定性の説明を、私自身は「四つ足の椅子」のような構造体を例に 受けてきました。

コンクリート構造のような「ゆらぎなくしっかりしている構造になる必要がある」そのイメージで、アサナの安定性をイメージしてきました。

あなたの「安定」のイメージはどうでしょうか?

ではここで 「安定」の意味を辞書で確認してみます。

あん てい 【安定】
(名・形動)
①落ち着いていて変動の少ない・こと(さま)。⇔不安定。「安定した経済状態」「安定を保つ」
②〘物〙ある系が外からの作用により微小な変化を与えられても,もとの状態からのずれが一定の範囲に収まるような状態。
③〘化〙物質について,化学変化が起きにくい,あるいは反応速度が遅い性質。また,そのさま。不活性。「酸に対して安定な物質」


「大辞林より」

安定とは“普遍の状態“ではなく、多少の変化を受けても“ずれが一定の範囲に収まる状態“のこと。

もう少し「ゆらぎ」を内包している状態だということです。

あなたの「安定」のイメージは?

この「安定」のイメージを考え直すきっかけになったのは、モントレー水族館のケルプフォレストを見たことでした。

この水槽環境そのものは もともと揺らいでいるけれど、その環境に調和している様子に、安定感を感じる。

揺らぐ環境に抵抗せず その中で最も少ない労力・効率の良い方法で関わることが「調和」になり、それはこの環境がある意味「安定」していることのように感じられる…

私のもともとの「安定」のイメージとは違うのに、とても「安定しいている」と感じることに 探究心が湧きました。

そこから安定を問い直しました。

「そもそも“安定“とは何か?」「私の考える“安定“は存在しているのか?」と。

辞書を辿ることによって、私の考えていた「安定」が 本来の意味とは違う“普遍的なイメージとしての安定“であることがわかりました。

安定を「普遍的」と捉えるか、辞書のように正しく「多少の揺らぎのある状態」捉えているのか?

「安定とは何で、それをどう定義するか」の意識がないと、自分の求める先さえ間違ってしまいそうです。

変化が全くない状態ー普遍的安定は存在しない

クリシュナムルティはこう言います。

関係や信念や行為のどこにも安定などはない。
そしてそのありもしないものを追い求めるがゆえに、我々はかえって周囲に無秩序をもたらしてしまう。

安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。
自分のなかで増大しつつある無秩序や混乱を目のあたりにして、あなたはそれをすっかり終わらせようと考えるようになる。

「安定」なんて、どこにも存在しない。クリシュナムルティの言ではそういうことになります。

クリシュナムルティのいう“安定“は普遍的なイメージの「安定」を指しているように思います。

もう一度、ケルプフォレストの水槽に戻りたいのですが、あの魚たちは、「とても環境に調和している」とは感じるのですが「普遍的安定」を維持するために、調和しているのではないと思います。

常に波を感じ、今するべきことをしているだけであって、波が変われば違う行動に出るだろうし、敵に襲われれば波を縫って逃げに転じることになる。

全ては「安定」しているように見えて、一瞬一瞬 その場に必要なことをしている。

同じことを繰り返して維持しているのではなく、環境を感じて その反応に合わせて行動し続けている。

その結果が、この水槽の調和であり、「ゆらぎの中の安定」ではないかと思います。

調和の維持は「安定」見える

クリシュナムルティが言ったことは もちろんもっと広い範疇のことなのは明白ですが、
身近な具体例で考えるとすれば、ヨガのアサナの中にも「普遍的な安定」はありません。

バランスポーズでも タダアサナであっても、体の軸の位置をできるだけ変化させずに 常に呼吸を続ける。

呼吸するたびに胸郭は上下し 横隔膜も伸び縮みして、頭部の位置も上下する。

その動きを続けながら、軸の位置を変えずにポーズを継続させる。

ーそれが「バランスを取る」ということの内実です。

それができている体は、外から見ると「変化を受けない安定」をしているように見えますが、実際は「常に変化を感じながら調整をしている動的な瞬間の継続」であると思います。

これが 「固めて変化させない“普遍的安定“」をやろうとしている場合は、外から見るととても硬く、軸も安定せず、やっている本人も 快適でないでしょう。

やりたいことは、変化のない「普遍的“安定“」ではなく、調整し続ける「“安定“に見える調和」です。

アサナでこれを掴むためには、周囲の変化と自分の体の状態を観察して、今日の“今の瞬間“ 快適な方法を選ばなければ、「“安定“に見える調和」にはなりません。

では「“安定“に見える調和」ができるようになるために やれることは何か?

これについては 次回記したいと思います。