体を変えていくために(マインド編)
前回は、良い姿勢は意識してできるものではなく、無意識状態で出来上がってくる状態のものだ というような話をしました。
前編はこちら
「良い姿勢」ってなんだろう(認識編)
では、無意識状態で出来上がるように、後は体を変えていくための行動にうつすのみ…ですが、
頭での理解は一瞬でも 体を変えていくのは、時間がかかります。
「だから、ヨガの練習をやればいいよね」という話なんですが、
ただやればいいのか、というとそんなことはないなぁ と。
その練習を どんな気持ちの向き合い方で行うのか、案外 これが大事に思います。
信頼しているヨギの一人が、度々する話に こんなものがあります。
『師が、ある弟子の状態を見て、その状態に合わせて 練習方法を教えました。
「これこれをこの順番で…1日1時間やるように。そうすれば12年後にはできるようになっている」と。
熱心な弟子はもっと早く到達できないかと、次のような提案をします。
「師よ、私は1日に2時間できます。1日2時間行えば いつできるようになりますか?」
問われた師は「少し待ちなさい。計算してみるから」といって、計算をはじめます。
計算を終えた師は、弟子にこう言いました。
「わかった。弟子よ、もし1日2時間行えば、24年後にできるようになるだろう」』
ヨガは 短期にいっぱい詰め込んだり 頑張りすぎることが、上達につながるとは限らないと彼は話します。
気持ちが先走る時、行動は
例えば、「早く上達したい!」という気持ちを、燃やすような思いで抱えていたら。
熱心に練習をしながら、一方で「最短距離」はどれか…なんて考え始めたりする。
(私自身、過去に アルゼンチンタンゴに対して、こういう感覚を持ちました。)
積み重ねの時間を飛ばして、変化を早く獲得しようと、自分に限界がある現状で無理にポーズを取りにいったり、「絶対これをやる!」という結果を強く求めながら行ったり、
あるいは、「やった感」「やれている自分」を感じたくて、ぱっと見の「できている」形に体を持っていくようなことを続けていると …
練習中に力みが起きて 使いたい部分ではないところを使い始め、変な体のくせを生んだり(あるいはくせを強化したり)、怪我を引き起こすことにつながります。
これでは、結局 たどり着きたい体の変化を 起こすことができなくなります。
「ヨガは安全で、それほど負担もなくて 体にいい」ということが言われたり研究結果もあったりしつつも、巷に常に痛みに悩まされている人や怪我が多発していることは、(指導者が対象に合っていないメニューを実施することも問題だが)このマインドのあり方が関係していると思います。
「じゃあ頑張らないのがいいのか」というと、もちろんそんなことはなくて、誠実に続けることはとても重要です。
ヨガの“修練”は、「やりたい」とか「やりたくない」とか、「暇がある」とか「忙しい」とか、そういうことと関係なしに、毎日決まったリズムで、継続して行うことが必要とされています。
“修練”まではちょっと…という場合でも、自分なりに 定期的に、リズムを保って続けていくことは、ヨガの核になる部分です。
継続する力には、先に述べたような頑張りとは違う種類の頑張り方、根気強さみたいなものが求められます。
ヨガの練習との向き合い方
理想的には、過度な期待をせずに、今やれる練習をコツコツ続けること。練習中は、ただ自分の呼吸や体の変化を観察すること。静かな心でこういう練習ができると、どこに課題があるか、どこを使うべきか、体から教えてくれるようになります。
こういうことを積み重ねられるような練習が、結局 ヨガを深めていける確かな道のように思います。
ただ、揺らぐのが人の性質ですから、渇望しそうになったり、がっかりしたり、ただの惰性になってしまうこともある。
努力だけでどうにかなるものでもなくて、周囲の環境から体や気持ちが揺れるのを避けられない状況もあります。
そういう時は、揺らぐことは気にしないで、そういう自分がいることを見つめたら、受け入れて また、焦らずに続ける。
「心を整えるために 体を整える」という話はヨガでも、禅でも出てくることですが、
体を変えようとする時の 向き合う心の保ち方もまた、それにつながっていくように思います。
さて、これを読まれた方で「苦しそう…」と 感じる方もいるかもしれませんね(笑)
でもなかなかどうして、日々コツコツ続けるヨガの練習って、楽しいものです。
終わった後の充実感や、続けてきた練習が 自分に自信を与えてくれたり、支えてくれる感覚ができてくると、頼りになる存在になってきます。