ハチドリの巣立ち
今年の4月、ハチドリがうちの家のパティオに巣作りを始めた。
そのパティオには、引っ越してきてからずっとバードフィーダーを掛けており、一年中ハチドリは訪れていたが、ハチドリが巣を作るのは全くもって初めてで、
めぼしい樹木がないこのパティオに、何を思ったか アウトドアライトの電球の上に巣を作った。
初めは、一般的なハチドリと違う動きをするこの一羽がやろうとしていることが「巣作り」であることに全く気づかなかったが、
それに気づいた後は、興奮と感動を持って観察を始めた。
この巣作りの過程や抱卵、子育ての観察についても、興味深いことはたくさんあったけれど、今回話したいのは、巣立ちである。
ハチドリは巣作りに念入りに時間をかけたのち、巣の中で動かなくなり、抱卵期に入った。
産んだ卵は小指の爪ほどで、2個だった。
雛を目視したのは5月7日。
一羽目の雛が巣立ったのは5月23日だった。
雛が孵ってから巣立つまで、わずか14日間だった。
巣立ちがやってくるもっと以前から、私たちは夫婦二人して この二羽と母鳥に十分以上の愛着を抱いており、蜜を飲みにくるハチドリとは違う気持ちで見つめるようになっていた。
2羽の雛は、一羽は少し大きく、もう一羽はそれより少し小さかった。
一羽目の巣立ち
体の大きな一羽目の雛の巣立ちは、あっけなかった。
5月22日の午後、パティオをのぞいた時、一羽が巣から出て、コードの上に止まっていた。
その時はじっと止まっているだけだったけれど、これまで用心深く、巣の中で頭のてっぺん以外は見せないでいたので、夫に急いで報告して、しばらく様子を観察していた。
次にのぞいた時は巣に入っていて、何度も出たり入ったりしているのがわかった。
変化を感じさせるこの日の動きに、二人してハチドリにとっての「初めての飛行」について話した。
ずっと巣の中にしかいなかった生き物が、ある日2メートル近い高さから、初めて足を離して飛ぶというのは、怖くないのだろうか?
墜落の不安はないのだろうか?
自分なら怖い。
鳥なのだから、飛ばない限りは生きていくこともできないけれど、自分の宿命を簡単に受け入れて乗り越えられるのだろうか?
というか、そもそも、恐怖なんてなく、本能で ーまるでプログラミング設定されているかのように、やり遂げられるのだろうか…?
その翌日、23日の早朝、再びこの子は巣から出ており、昨日より離れた場所に止まっていた。
時折羽を大きく動かして、ガサガサ動いている。
9時過ぎには 不格好な羽ばたきもだんだん様になり、体が浮き上がりそうなほどだった。
二人して「もうすぐ飛べるようになるかもね」なんて話していた。
それが、12時前にのぞいてみると、いない。
どこだろうと目で探しながら、もう飛べるようになったのかもしれないと同時に思った。
よかった!
お祝いを言いたい。
戻ってきたらお祝いを言おう。
そう思っていた。
…その日、この子は帰ってこなかった。
翌朝になっても、姿を現さなかった。
ー これが一羽目の巣立ちである。
この一羽は、羽ばたきの練習を数時間やったのち、初めて足を離して空中に身を投げ出して、羽ばたき、初めての飛行をやってのけた。
そして、その瞬間が巣立ちだった、ということになる。
その日の夕方、パティオの巣を眺めながら「あれが巣立ちだった」ということを、二人して話した。
また帰ってくるだろうと思っていたから、お祝いを囁くくらい、心の中でそっとお別れする時間くらいはあるだろうと思っていた。
だが、私たちの感傷と関係なく、実にあっさりと、唐突に、巣立ちのときはやってきた。
たった2週間見ていただだけの雛の巣立ちに感じた切なさに、世の親御さんの子どもの巣立ちに対する想いに、心を馳せたりなどした。
同時に驚かされたのは、この一羽の持つ「強さ」だった。
鳥にとしての宿命を、恐れなく受け入れる姿勢。
野生の生き物はこうやって、自分の本質的な生き方をこんなにも力強く受け入れられるのか。
あるいは、野生の生き物にとっては、生きることはこんなにもはっきりと、迷いがないことなのか。
試練に見えることも、恐怖なんて 彼らは感じることもないのかもしれない。
実にうらやましい。
人間にとっては、場合によって それは簡単ではないことだから。
二羽目の巣立ち
一羽目が巣立ったのち、体の小さなもう一羽にも巣立ちが近づいているはずだった。
一羽目のことで、巣立ちがあっさりやってくることは 痛みをもって実感していたので、二羽目については時間を見つけて何度も何度も観察しに行った。
この二羽目は ーチビは、とてもおっとりしていた。
ほとんど巣から出てこない。
母鳥に促されて巣から出ても、何度も出たり入ったり。
すぐに巣に戻ろうとする。
5月23日は、そうして日が暮れた。
24日、今日こそが巣立ちだろうと思いながら観察を始める。
しかし、チビはほとんど動かず、巣から出てくることもほとんどない。
母鳥は何度も巣に戻ってくるし、餌も与えるけれど、その後は距離をとってじっと見守っていることも多い。
チビはその間、ひたすら泣き叫んでいるばかりだった(と言っても雛の泣き声は周波数が高すぎて聞こえないけれど)。
午後を過ぎても、羽ばたきの練習はしても、気づいたらまた巣の中で、ほとんど動きがないままだった。
変化のない観察に飽きが出始めたころ、事件が起きる。
急にハチドリの激しい鳴き声が聞こえてきた。
見ると、チビが大人のオスのハチドリに攻撃されている!
オスのハチドリはチビの足をクチバシでくわえて、引き下ろそうとしている。
チビの方も、しぶとくなんとかコードにつかまっているが、相手が諦めなければ落ちてしまうかもしれない。
「逃げなきゃ!」
「飛んで逃げたら…!」
ハラハラしながら見ていたが、結局我慢できず、攻撃するハチドリを遠くから脅して追いやった。
もうだめかと思ったけれど、間一髪、片足だけで繋がっていた。
バードフィーダーに近い場所に巣があるために、縄張り意識の強いオスのハチドリが、チビを追い出そうと攻撃したようだ。
墜落はしなかったけれど、片足でフラフラ、振り子のように大きく揺られて、いつ落ちてもおかしくない。
それでも、決して足を離さない。
やろうとしていることは…人で言うなら腹筋で起き上がってくるように、足でコードを掴んだまま体を起こすこと。
鳥として、とても不自然な方法で。
「絶対飛んだほうが楽なのに…」
それでも、そこから飛んで体勢を立てなおす方法を選ばない。
「どれほど飛ぶことが恐怖なのだろうか…」
気持ちはよくわかる。
けれど、飛ぶことは鳥の本性だ。
飛ばないで生きていくことはできない。
「本性である宿命から逃げ続けても、生きていくことはできない…」という言葉が浮かんでのち、人間の生き方にも言えるな…と苦い気持ちになる。
次に見た時には、巣の中に戻っており、この一件に懲りたのか、その後はほとんど動かなかった。
日が暮れる頃、「この子は巣立てないかもしれない」という不安が 頭をもたげてきた。
一羽目の時は数時間で終わった巣立ちを惜しく思ったのに、この時には、二羽目が早く巣立つことを願いはじめていた。
25日の朝を迎えた。
母鳥が巣に戻ってくる回数が減っている。
ほとんど見かけない。
見捨てられたのか?と思うほど、姿を見かけない。
戻ってきても餌を与えないで、じっと離れてとまっていることが多い。
「…多分、今日巣立つことができなければ、この子は母鳥に見捨てられるだろう」
そういう気持ちが、私たち二人の間で強くなってきた。
14日で巣立ちを迎えたハチドリ。
一羽目は巣立ちを数時間でやってのけた。
そんな生き物が、巣立ちに 3日もかけられるとは思えない。
母鳥は、大人になった子どもにずっと餌を与えるような生き方はしないし、自分で飛んで自分で餌が食べられない鳥に、鳥として生きていくことはできない。
それでも、餌は与えなくても、じっと、静かに離れた場所で止まり続ける母鳥の様子に(それを見ようとするのは人間のエゴかもしれないが)諦めたくない気持ちや、深い愛情があるように感じられた。
午前中は、昨日と全く同じ状況が続いた。
不安が強くなってきた。
正午は過ぎた。
どんどん暑くなるし、巣立った後にも、餌を探す必要だってあるだろう。
今日休むための場所だって探す必要がある。
そんな時間があるのだろうか。
もうダメかもしれない…
この日は95℉を超える暑さで、家の中からそっと観察した。
私の中の諦めの気持ちがどんどん大きくなりつつ、灼熱の中、母鳥とチビは、ただじっと向かい合っている。
脳内で、
「ずっとこんなことはできへんねんで」
「いつかは飛ばなあかんねん」
「お母さんも、これ以上はもう待たれへんねんで」
という、母鳥のセリフを 勝手に(関西弁で)想像して再生していた。
チビは、その間 自分の羽をクチバシでいじっているけれど、なかなか羽ばたこうとしない。
そうやって時々行われる何度目かの羽ばたきで、チビの体が急に大きくぐらついた。
羽ばたきとともに 体が大きく揺れ動いている。
繋がっている足を離したら、飛んで行けるくらいに。
「離したら。その足を離したら。」
祈るような気持ちで見つめていたその瞬間。
急にその時がやってきた。
飛べる!飛べる!
フラフラした頼りない飛行だけれど、飛べたことの驚きが、見ているこちらにも伝わってくる。
1度目の飛行は短く、すぐにコードに止まってしまったけれど、2度目の飛行では、パティオの屋根の内側を少しホバリングしてから、パティオの屋根の上をほんの少し飛行して、その後は、どこまでもどこまでも、高く高く登っていった。
あんなに、怖がっていたのに、飛べることがわかったら、「どこまでも飛んでいきたい」というふうに、飛べることに魅了されているように見えた。
チビが飛び立って数分後 母鳥も飛び立ち、そのまま、この巣には誰一人戻ってこなかった。
今回 ハチドリ一家が我が家でハウスシェアしたことは、間違いなく ベイエリアに移住して 最も良かったことの一つだと言える。
「野生ってすごい」と、「野生」という言葉で ごまかしそうになったけれど、そうではないこと。
宿命を受け入れるのは、命にプログラミングされていることではないこと。
野生でも生き方を決めるタイミングがあるし、それをどう受け止めるかは、個体差があるのだということ。
場合によっては、自分たちと同じような恐怖も、迷いもあるのだということ。
けれど、その宿命を受け入れない以上、生きていくことはできないこと。
本性に沿った生き方は、やはり 喜びがあるだろうこと。
小さな小さな生き物の、短くて早い成長を垣間見て感じたことが、今年の夏の最も大きな収穫だった。