Yoga

「正しい」「間違い」という言葉のうしろで

「「アサナのサンスクリット名が知っているのと違う」
「そのアサナの名前は知っているけれど、ポーズの形は知っているものと違う」
「知っているポーズが、全然違う別の名前で呼ばれている」
「知っているアサナだったけれど、最終形が違う」


「…どれが正しくて間違ってるの?」

ヨガに親しんでしばらくして、こうした経験をしたことはありませんか?

ある程度皆さん経験があるのではないでしょうか?
そこで冒頭のような疑問を感じることもあるかもしれません。

結果、「モヤモヤする…」


指導法や最終形が違うこと

ポーズの最終形が違うこと、指導の方向性が違うことについての個人的な考えについては、これまでも何度かブログで触れてきました(こちらのブログ後半)。

アサナの具体的な方法について 記述がある聖典で一般的なのは、16世紀頃成立したハタ・ヨーガ・プラディーピカーですが、そこでは15種ほどのアサナについてしか触れられていません。

数の記述がある聖典は多くても、具体的な方法の説明となると実に少なく、アサナが形に残さない方法で伝わってきたことが想像できます。

そうした背景の中で、「使いたい部位、意識したい部位が それぞれのグルによって違っていれば、アサナも少しずつ違っていて当然だろう」と個人的に思います。

また、古典的なポーズの形が、現代の科学的視点で見て安全でないと考えられる場合、
ー科学は常に新しい事実によって刷新されるので、その事実自体が覆る可能性を含みつつもー
運動生理学やバイオメカニクスの観点から見て、より安全な体の使い方になるようにポーズが修正されることは、伝統の維持より ずっと人々にとって有益なことに思います。

アサナの名前やポーズの形が違っていること

アサナのサンスクリット名が 流派によって異なることがよくあります。

ポーズの翻訳名が違うこともあるし、名前が同じなのにポーズが全く違うこともよくあります。

【例】翻訳名:山のポーズ
   =タダアサナ(立位のニュートラルポーズ)
   =パルヴァーターサナ(ダウン・ドッグと呼ばれることが多いポーズ)

なぜ、違うのか?

私自身は、この問題の具体的な背景を知りません。

けれど、名前が異なっている背景については、以下の説明を聞いたことがあります。

「サンスクリット語は音が持つヴァイブレーションが重要だが、そのアサナにどんな音を当てたいかはグルによって異なる。
グルによってその言葉の選択が異なっていたため、様々な名前がある」

この話を聞いたときは、「なるほど。それは大いにあり得る」と感じ、納得感がありました。

一方で、自分にとっては、こうした「違い自体」は 今はさしたる関心がありません。

「違う」ことを、
一つの情報として ニュートラルに見る

アサナの形や方向性にしても、名前にしても…
違っていること自体は、ただ、「異なっている」だけです。

けれど その違いが、
自分の信じていることと どう違っているか、
知らなかったけれど 信じられるか、
自分の知っていることと 両立できる違いか…

これまでの自分の考えを否定されるような違いや、考え方が混乱するような違いである場合もあります。

この「違い」が少なからず感情をかき乱すことがあるのは事実ですが、そこから離れれば、一つの情報です。

既知のことは、自分自身がこれまで得た情報や学習や習慣から来ています。
未知のことは、ただ 自分自身が知らなかったこと。考えてこなかったことです。

既知のことは過去から得たものであるために、現状が変われば 現時点の「最善策」でなくなることもあります。

未知のことは、お話にならない間違いのことももちろんありますが、今の自分にはあり得ないように思えても それが新事実ということもあります。
未知のことに対する心の動きによっては、結果的に自分自身の偏見を炙り出されることもあります。

どちらにしろ、未知のことが間違っているかどうかは、それをよく知ってからしか、判断できないことです。

そうなると、地動説や万有引力の法則など、試験しデータを積み重ね 定説になり覆しようのない事実となっていること以外は、どの違いも簡単には「間違い」とか「正しい」とは言えないと感じるのですが、

着物も 茶道も ヨガも…

現代は伝統や正統性を背景にしたものになると、
違いを取り出して「正しい」「正しくない」という話をしたがる人が多いように思います。



特にヨガにおいては、互いが個々の使命を生きる多様な存在であることを認めながら、他者に自分との共通性を見出す哲学に根差しているのに、
違いをもとに区別して 相手を断じたり自分の正当性を主張する姿勢は、ヨガの実践としては 随分中身の薄いことのように思います。

「違い」の後ろにある 共通性のこと

私自身は、「本物」とか「伝統」とか、「最新の」とか。
形容詞ではなく、個人的にはその後に続く内容の方が…

違いがある指導・考え方が含んでいる 有用性や安全性について、この話者がどう考え、どのような姿勢で話しているか。

そのことの方が重要だと思います。

自分の学んできた系統ややり方と違っていても、安全上大切なことを話している人もいるし、身体を変える上で必要な意識について話している人もいる。

私の場合は、背景がどうであれ、「安全に身体を変える」といった 目指す方向性が同じなら、自分で理解し、確かめたうえで、有用だと判断したら練習に取り入れることも検討します。

もっと、重要に感じること

とあるヨガ情報誌の ヨガ指導者が書いた記事内で、次のような表現がありました(原文ではなく修正しています)。

「下腹部の『丹田』を意識してください。①
わからない人は、腹部にある腎臓付近を意識します。②」

①丹田:中医学的には下腹部に丹田が位置すると考える。
ここまでは、中医学的な世界では事実であるとして、それでよいのですが、

②腎臓の位置:解剖学的に、腎臓は脊柱を挟んだ両側、左右に一つずつ。体の前面ではなく、背中側に位置します。
(人体は神秘なので、そんな人が全く存在しないとは言えないものの)ほとんどの人体で へその下、下腹部には存在しません。

私にとっては、「腹部にある腎臓」の方が、全くわかりませんでした…

この記述には悪意は感じられなかったのですが、すぐにわかる事実(この場合は解剖学)を確かめないまま(あるいは間違って覚えた状態で)、身体について指導する立場の人が事実のように口にするのは、その他の発言の信憑性にも関わってくるので 問題があると個人的に感じます。

「指導者」という立場の危うさ

ここからは、自分自身への戒めでもあるのですが、

教師とか指導者とか…
こうした立場の人は、人を先導し 扇動もできる立場です。

「知っていること」と「知らないこと」の線引き
「事実であること」と「そう信じたいこと、自分の希望や考え」の線引き

人を導く立場にある人は、これらを意識して話をする必要があると思います。

でないと、事実と自分の考えとが混じり合ったものを、「正しい」かのように見せて提供してしまうからです。

この論理は意図的に使うこともできて、もっともらしい言葉を繋げて、間違った情報に信憑性を持たせたり、正しい情報に交えて、不正確な情報の真実味を持たせたりすることで、人々を自分の向かわせたい方向へ方向づけをすることができます。

これは、教育(場合によって洗脳)、マーケティング、ネットワークビジネス… 様々な場所で行われています。

私には「ヨガの違いがあること」や「ヨガの正統性があるか」ということよりも、講師が誠実に この「線引き問題」に向き合っているかどうかの方が ずっと重要に感じられます。

誠実に向き合っている人は、生徒に伝える情報が、自分が信じ、安心して伝えられる情報であるかどうかの確認を怠りません。

わからないことには「わからない」といい、知らなかった情報を知ったときは、正しい可能性も含めて 耳を傾けることができます。

科学(情報)のアップデートによって新事実が分かったときは、「これまで〇〇と話してきたが、こうした事実がわかったので□□の方がよい」と修正をすることができます。

私自身は、丁寧に聞くのなら そういう人の言葉を聞きたいと思うし、できうる限り そういう講師であるよう努めようとしています。
(もちろん人間なので、間違うこともありますが😓)


今回例に出した「はっきりした答えのない“違い“問題」と同様に、
「やってもすぐには変化しない体」や
「“〇〇やせ!“のようなわかりやすい対処法にならない」
といった面を、ヨガの世界は含んでいます。

そしてそれは 決して悪いことではなく、私には「実にヨガらしい」とさえ 思います。

世界の多くの部分が、今も 常に、わからないことに包まれながら、日常と共にあるからです。

答えのでない事態に耐えながら、
理解しようとすること

ネガティブ・ケイパビリティ。

どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力。
または、性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力 ※。

この重要性が言われるようになって久しいですが、講師も生徒側も、共にこの力が必要に思われます。

わかりやすい答えが欲しくて 白黒つけようとしたり、「一番近い」と自分が思う答えを「正しい」と言ったり。

そうするのではなく、不明瞭で不確実なものを含んだ状態が続く状態にありながら、自分なりに向き合って少しずつ理解を深めていこうとする姿勢が、コロナを経験した世界を生きる私たちにとっては ますます重要になってくるのだろうと思います。

※ ネガティブ・ケイパビリティの大意については、帚木蓬生(2017)『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力』の表現を参照しています。