Yoga

Satya サティヤ

しばらくヤマについて触れています。

今回は2つ目になる サティヤです。

Yama ヤマ(禁戒)

①  アヒムサ(非暴力)
② サティヤ(真実・正直)
③ アスティヤ(不盗)
④ ブラフマチャリヤ(禁欲)
⑤ アパリグラハ(不貪)

他人や物を含む周囲に対して守るべき5つの行動
環境や人々と良い関係を保つために自制すべきことがまとめられている

サティヤ(真実・正直)

「サティヤに徹し真実を確立した者のそばでは、彼らの言葉は真実になる」
“In the presence of one who is established in truth, his/her words come true”
ヨーガ・スートラ Ⅱ−36

サティヤの日本語翻訳には「正直」がよく当てられ、その実践については、「嘘をつかないこと」「正直であること」が挙げられます。

とても重要ですし、どの方にも理解される内容だと思いますが、これはサティヤの中の 最初の段階に思います。

Satya = truthfulness, truth

英語では、正直、誠実を意味するtruthfulnessとともに、truth を当てられていることが多いです。

考え、言葉、行動において、真実と一致していることを意味します。

個人的には意味に「正直」のみを当ててしまうと、サティヤの範囲が狭まって理解されるような気がします。

優しい嘘

嘘が良くないのは周知の事実として、誰かを傷つけまいとしてついた嘘はどうでしょうか?

よく聞く話です。

いただいたお歳暮、クリスマスギフト。
イマイチだったけれど思わず「よかった」「好きだった」と返事してしまったことで、度々いただくようになってしまった…。

微妙だと思っているのに、自分では使わないだろうに、毎回、「喜んでいる」と思われて届くギフト…。

ギフトは使われず無駄になり(あるいは仕方なく使われて)、もらった人も送り主も、誰も幸せにならない。
さらに 今後何かのきっかけで「喜ばれていない」ことを送り主が知ってしまったら。

きっと送り主は気づかなかった自分を責めながら、「言いにくかったのだろう」と考えてくれるでしょうが、馬鹿な行動を続けさせた相手に「なぜ素直に言ってくれなかったのだろう」とも思うでしょう。
「今後はもっと深読みをして、言葉通り受け止めず 想像しないと」と思うかもしれません。

こうなると、その人の反応・行動は信用されなくなり、「真実を語り合う関係」を続けることが難しくなります。

このように、サティヤでは、誰かを傷つけまいとする嘘も よくありません。

真実をいうことがヒムサ(人を傷つける)になるのではれば、嘘を言う必要はない、沈黙を守ればいいとされています。

正直でいるために

正直でいるのが案外難しいことは、大人になった我々にこそ よく理解できることかと思います。

一つは、建前や縦割りなど 儒教的な教えが色濃い日本の社会文化の中では、思ったありのままを表現することは「失礼」であるとされること。
このように外的な要因で、「正直」であることを、制限してしまうことがあります。

そして、もう一点は、「思ったありのままを表現すること」が、正直であるのかどうか という点にあります。
「感情をストレートに 他者にぶつけること」が正直なのかどうか ということです。

「モヤモヤ」「イラッと」「急に泣き出したくなる」など なぜそう思うか分からない感情がやってくることが、人にはあります。
これらの感情は私たちへの一つのサインー 奥にある 本質的な思いからの呼びかけです。

考え、言葉、行動を真実と一致させる。

これがサティヤなら、表面的な感情の動きに従うのではなく、自分の本質的な思いを知り、アクションを一致させていくことが、サティヤではないか と個人的に思います。

【「真実」が何か探そうとする態度 】

マスクされる前の 自分の 本当の気持ち・思い

実際私たちは、自分の本当の思いにどれだけ気付いているでしょう?

前職でアンガー・マネジメントを学んでいた時期があります。

そこでは「怒り」は二次的感情で、ベースになる一次感情は別にある とありました。
怒りを感じる時、そこには別の感情があるというのです。

「寂しさ」「悲しさ」の表現としての怒り、「軽んじられた」「正当に扱われなかった」と感じたことによる怒り、「恐怖」の表現としての怒り、「自分を守る」拒絶反応としての怒り…

怒りを伴った行動は、強い感情を使ってその場を支配したり、その場の空気を変えたりする力があるけれど、その一瞬以外は、あまりプラスに働かないものです。
その元となる思いに気づかないと、結局何の解決にもならず、似たシチュエーションを繰り返してしまいます。

怒りの元になった思いに気づけたら。

「こんな経験が寂しかった」とか、「不当に扱われたようでつらい」とか、「怖かった」とか、「傷つけられたくなかった」といった思いに気づけたら。

一旦怒りを少し横に置くことができたら、元の思いを伝えるための 別の方法を考えられます。

結局その方が、今後へプラスになるやりかたです。

自分の本質的な願いを知ることは、生きる指針

ヨガニドラの中では、サンカルパをします。
(サンカルパについて)

適切な言葉を使って、繰り返し自分に誓うサンカルパは、必ず叶います。

その 自分自身に叶えたい思いを誓うためには、「本質的な願い」を言語化する必要があります。

資本主義社会においては「大きな家に住み、美しい車に乗り、〇〇ドル以上の年収があり、年◯回旅行に行って…」というのが、一つの夢のように語られることがあり、そうだったらいいな という人はたくさんいることでしょう。

けれど、実際、本当にそれが「本質的な願い」という人はどれくらいいるのでしょうか?
それが仮に叶えば、自分が十分「充たされている」と感じられるものかどうかということです。

本質的な願いは、誰かから提示された幸せのイメージ(欲望)ではなく、自分の性質、本質からくるものです。

それを知るためには、自分と向き合う必要があります。

ここでも、サティヤ=真実と向き合う姿勢がなければ、願いを決めることさえできないのです。

まず、本当の自分の思いは何か。
それに気づけたら、その思いと行動とを 一致させていく。

そういうことがサティヤではないかと思います。

自分が信じたいものが「事実」になる時代で

真実は心地よいものばかりではありません。

「知らずにいられたら楽だった」 そういうものも中にはあります。

「心地よければ 真実などどうでもいい」「信じたいものが『事実』になる」

自分の信じたいことを声高に叫ぶ人の言葉をリツイートする、拡散することで、本当の真実よりも支持される…
「真実」に価値を置かない人が増えている…

実はサティヤを貫くのが厳しい時代だと思います。

けれどヨガでは、マーヤー=「幻想」が苦しみのもとである と考えます。

真実でなくていい、心地よい幻想でいいと思って、それを選んだあるひと時は、真実を知った時・知ろうとする時よりも、心地よく快適かもしれません。
けれど結局、幻想を選んでいても成長はなく、最終的に自分自身を苦しめることになります。

その例は、次のアサナにおけるサティヤで見てみましょう。

【 アサナにおける サティヤ 】

アサナの練習で最も大事なことが、サティヤかもしれません。

間違った練習を何度繰り返していても、体を変えることはできません。
体を変える、練習を価値あるものにするには、現実を知り、受け止める必要があります。

体からの反応ー痛み、伸び、やりにくさ…こうした反応を、しっかり見つめて、素直に受け取りましょう。
(形ばかりが真実とも言えないのですが)時には鏡に映った姿を確認するのもいいです。

「もっとできるはず」「やれてる」あるいは「全然できてない」という気持ちがわく時がありますが、過大評価でも過小評価でもなく、鏡や水に映った自分を見るように、今の自分を正当に受け止められるようになりましょう。

「できてる」「できてない」といった認識を持つと、その時から現実はそのように認識されます。
認識が間違っているときは、体が修正箇所を教えてくれていても気づけなくなります。

正当に受け止められるようになると、使うべき部分、使えていない部分、現実がはっきりとし、対処するべきこと、やるべきことがわかってきます。

さらに、自分の限界もわかるので、怪我を引き起こすことなく練習が続けられます。
サティヤが守れていたら、アサナでヒムサ(体を傷つけること)がないわけです。

アサナでサティヤを保つためには、成長を焦ったりせず、この瞬間に意識をむける必要があります。
この練習のためには、今後述べるブラフマチャリヤアパリグラハも重要です。

アサナにおけるサティヤの具体例はこちら

【 COVIDー19流行期における サティヤ 】

できる限り、真実を探ろうとする態度で 情報と向き合う 

デマを流したり、デマかもしれない情報を広めることはサティヤに反します。

真実ではない情報を広げるのは嘘をつくことと同じであり、人が流した情報を確かめないで広めることもまた同様です。

コロナウイルス自体とその流行の仕方、対処法ついては、まだまだ わかっていることが少なく、はっきりとした対処策がありません。

将来的には、各国が積み重ねたデータを元に研究が進み、効果的な対処策が決まるでしょうが、それはまだ先の未来のことで、今現在は各国がそれぞれ試行錯誤を重ね、その前例を互いに参照しあって対処しているところです。

実態が分からないものについては不安が生まれやすく、不安が拡がると、人の心の隙をつくような情報が増えます。

ネットを介せば、数多の情報に触れることができる一方、真実かどうか分からないものもたくさんあります。

加えて 人は不安になると、心理的余裕がないために、また、不安の答えを早く出してしまいたいために、真実に向き合うことが難しくなります。

まず 不安を感じていることを認め、普段より真実と向き合いにくい状態にあることを自覚しましょう。

そして 触れている情報が「正しい」とは限らないことを、意識しておきましょう。
自分なりに、「真実が書かれているか」「どこまで信じられるか」確かめましょう。

  • 政府当局や公の保健機関の情報か?
  • いつの情報か?
  • 同じ見解の情報が他にも存在するか?
  • データは信用できるか?
  • 発信者はどんな人か、過去の発言はどうか?…など

専門知識がなければ分からないこと、経験しなければ分からないことが多すぎる事例なので、「確かめる」ことは困難な上、現時点で適切と思われていることが変わる可能性もあります。

けれど、安易に情報を信じ切ったり、それを流布するのはサティヤな行為ではなくなります。

手間がかかりますが、真実を知ろうとすること、少ない数でも確かな事実に触れていることが 不安を取り除く方法でもあります。

そして、それが確かな事実であれば、今後の見通しがつき、心理的余裕が生まれ、自分と周囲の安全が少しずつ確保できるようになります。

日本赤十字社のこちらの呼びかけはとても重要。
この記事をサティヤの視点で読むと、真実と向き合う重要性、間違った認識が引き起こす問題について さらに理解がしやすいです。

新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!
~負のスパイラルを断ち切るために~
http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/news/200326_006124.html